本郷の東大近くにある喫茶・ルオーは1952年画廊喫茶として開店した喫茶店です。初代経営者が没した翌年、別の経営者が後を継いで店舗を移転し1980年に再オープン。初代の店で使用した椅子、テーブル、飾られていた絵画を引き取り、店の味も引き継いだ、ということが数々の取材記事に書かれています。
移転後40年以上が経過し、ルオーといえばこの二代目ルオーのことがよく知られていますが、初代経営者はどんな人だったのだろうか。画廊喫茶だから美術に造詣があり、東大前に店を構えていたことから、美術関係者やアカデミックな仕事に関わる人かと想像していました。しかし、美術に造形が深いこと以外の事実は異なっていました。
『オール生活』1960年5月号にはルオーの初代経営者、森田賢氏の半生が綴られています。『オール生活』は仕事や生活を豊かにするノウハウなどビジネス情報誌としての側面があり、氏の半生は成功譚に近い表現で記されています。しかし、そのやや誇張に近い表現を差し引いても、森田氏は経営の才覚がある人で、東大前に店を開いたのもただの思いつきではなく、将来性を見込して予め土地を購入していたようなのです。
森田氏は戦前は運送会社に勤め、奈良の弥山発電所の建設現場へ資材を運ぶ仕事に携わりました。多い時は現場で4千人の指揮をとり、工事は5年かかったそうです。その後、勤務先の子会社の社長に就任した森田氏でしたが、親会社の社長から経験が乏しく若い時から管理職になると大成しないと発破をかけられ会社を辞し、東京貨物自動車連合会(現・日本トラック協会)に転職、一社員として樺太から九州まで飛び回る生活を送ったそうです。戦後、会社を辞めた森田氏は、喫茶ルオーを経営することになります。店名の由来は、若い頃画家を目指していた*ことから『画廊喫茶ルオー』と名付けました。その当時開催された『ルオー展』をきっかけにお客が増えて店を増築し、大手町ビルディングにも支店を出すまでになりました。『画廊喫茶ルオー』の屋号は商標登録していたそうで、このような点も経営者としての手回しの良さを感じます。また、大手町ビルディングへの出店についても、森田氏の働きかけはあったと思うのですが、さらに前職で関わった方の口添えがあったのかもしれないと想像しました。
富永一朗の『東京珍味たべある記』(1967)には、初代の頃のルオーについて、富永氏独特の筆致で表現されています。セイロン風カレーが安くておいしい、提供も素早いとありますが、客層は夜の9時頃でも「ネクタイキリリのゼントルマンとブラウスホロリの賤しからざるお嬢さんが、オチョボのお口にカレーライスをコチョコチョと運んでた。家の造りと壁の画が、下駄ステテコにつけ込む隙を与えない。ここはそんなエリートの店。」旧店舗は現店舗と比べ店内の造作は多少異なってもアカデミックな雰囲気が漂う店だったことや、この頃からセイロン風カレー(セミコーヒー付き)、自家製アイスクリームを提供していたことがわかります。
ルオーの経営者に限らずとも、老舗喫茶店へのインタビューを読んでいると、戦後10年前後に開店した喫茶店の経営者は、元料理業界にいた人や脱サラして店を始めた人が主流ではなく、経営者としてすでに活躍している人、実家が裕福である人が店を始めるケースが見受けられます。店舗で立ち働き運営する人、というよりも、時々店がうまくいっているか見にくる人です。現存する喫茶店のほとんどは40~45年前の喫茶店ブームの頃に開店した喫茶店がほとんどです。昭和20-30年代始めに開店した創業60年前以上の店は店主が既に変わっているため、創業時のことを詳細に知る現経営者は少なく、実際にお話を伺い、当時のことを深く知ることは難しいのではないかと思います。
梅雨明けの頃にルオーを訪ねました。昼時の忙しい時間に入店したことと、働く人も客もみな創業時とは変わっているので、この日は特に何か訊ねることはしませんでした。小盛りサイズでも十分なボリュームのあるスパイシーなカレー、カレーに合う濃さのコーヒー、さっぱりした甘さのアイスクリーム。丁寧に作られた味で、何を食べても満足度が高かったです。ここにしかない味で、ずっと残していきたいと思ったことが納得できるものでした。2階席の窓は開け放たれ涼しい風が吹いており、都内の中心部であることも忘れてしまう雰囲気でした。
*『文京グルメマップ2020-2022』(発行:文京区観光協会)にある喫茶ルオーの紹介文には「画家だった初代店主が~」の書き出しで始まり、『東京珍味たべある記』では「ここのあるじはプロの画家ぞ」と来ていた客に教えられたと書かれています。初代の森田氏は画家を志していましたが、両親に反対され、若い頃は絵の具屋で奉公したり、ペンキ屋で宝塚歌劇の背景画の仕事をしていたことがあったそうです(『オール生活』より)。
コメント