霞町のアマンド会館

六本木アマンドのコーヒーカップ 東京都

霞町(西麻布)のアマンドビル1階にあった喫茶アマンドについては以前運営していたブログに書いたことがあります。Twitter等の検索によると霞町のアマンドは2012年頃に閉店しました。その理由はアマンドがキーコーヒーの傘下に入ったことにあったようです。この頃、都内各地のアマンドの店舗は次々と店を閉じ、喫茶室を設けた直営店舗は六本木店のみとなっています(2023年5月現在)。

六本木のアマンドビル2階の喫茶室では2017年より「アマンド昭和食堂」という名前で懐かしの洋食メニューを提供しています。レシピはかつて赤坂と霞町のレストランルームで当時提供されていたメニューの一部を再現し、現代風にアレンジしたもの。他ではあまり見かけない「スパゲティ コスモポリタン」という珍しいメニューもあります。私が選んだのはランチセットのホワイトグラタンでしたが、ソースがあっさりしてシンプルな味つけで、マカロニとポテトの歯ざわりの違いが楽しめる一皿でした。使用されているグラタン皿やプレート、コーヒーカップの実物は公式サイトのメニュー写真よりも年季が入っており、味だけではなく器も当時のものをできるだけ再現しているように見えました。

アマンド六本木店のランチセット(ホワイトグラタン)

アマンドのレストランルームとメニューの再現の経緯に関してはアマンド公式サイトの記述(ブランドヒストリー)アーバンライフメトロによるインタビュー記事等に詳細があります。公式サイトやインタビュー記事によると、レストランのレシピは既になかったため当時アマンドで勤務していたシェフを迎え入れ昭和40年代の味を再現したそうです。

霞町のアマンドは、かつてアマンド館という名前で、1階は売店と喫茶、2階に喫茶と軽食、3階にレストランを開いていました。4、5階には事務室や社員のトレーニングルームがあったそうです。アマンド館はアマンドの開業20周年の年(1966(昭和41)年)に建築され、設計はアマンドチェーンの設計を手掛けていた水島政男氏によるものでした。水島氏は現在も使用されているアマンドのロゴやカラーなどのブランドイメージを作り上げた人物です。

アマンド霞町店(アマンド館)の外観。Google Street View 2009年11月より。
アマンド 東京・青山とあるが、竣工当時の別雑誌に掲載された白黒写真から霞町のアマンド館と思われる。外壁の白っぽい部分は実際にはコーヒー色に近かったようだ。『製菓製パン』1971年8月号広告より。

アマンド館の外壁には上階から A, L, M, O, N, D のアルファベットのパネルが埋め込まれ、夜になるとネオンが点灯して文字がよく目立ったそうです。棒状の大理石を埋め込んだらせん階段を上ると、2階には大小の円形テーブルと華奢なアイアンフレームの椅子を配置した喫茶・軽食フロア、3階はチェックのテーブルクロスのテーブルとナラ材の椅子を配置したレストランフロアがありました。霞町や赤坂にあったアマンドのレストランはP.C.B. (ポーク・チキン・ビーフ) と呼ばれ、P.C.B.ランチ、エビフライ、特別料理としてチキンバスケット、ステーキ、お茶漬、おにぎりまで幅広く揃えていました。

ちなみに、私が霞町アマンドを訪れた頃(2010年)にはレストランルームを閉じており、1階の売店と喫茶室のみ営業していました。当時書いたブログの一部を抜き出して再掲します。

アマンド霞町店外観

話かわって、「青山霊園の近くに、ちょっと変わった感じのアマンドがある」という情報をもらったので、行ってみることにしました。場所は西麻布交差点から外苑西通り沿いに歩いて数分の場所にあります。おなじみのピンクと白の日よけはあるものの植え込みの陰にひっそりと佇むかのようにあるお店で、六本木や銀座のアマンドとはまた雰囲気が異なる印象を持ちました。
 店名の「霞町店」というのは、この辺りの旧町名のようです。地理に疎い私は、霞ヶ関の近くかと勘違いしてしまいそうです。

 アマンドの他の店舗と比べて客席数は少なく15~20席程度でした。店内の雰囲気や設備も他の店舗と比べるとやや古びた印象でした。深緑色のリノリウムの床も少し色が抜けているようで。2階にも客席があるようですが、今の時間帯は使用されていないのか、階段の電気は点いていませんでした。

アマンド霞町店

 コーヒーと定番のリングシューを注文しました。実はアマンドではケーキ類をまだ食べたことがありませんでした。
 運ばれてきたシューにはナイフとフォークが添えられていました。ジュースをストローで飲む時のような、よそゆきの感覚です。コーヒーカップもアマンドの他の店舗では見たことのない、厚手の白磁に金のラインが入ったものでした。

 気がつくと、新しいお客さんがやってきてお店の方と談笑していました。どうやら常連さんのようですが、カウンターと客席が近いこのお店だからこそ、このような会話も生まれるし、親近感も生まれるのでしょう。客席数が多く人の出入りが激しい銀座のアマンドとは異なり、静かで落ち着いた雰囲気が新鮮でした。

アマンドの創業者・滝原健之氏について、資料をもとにまとめてみました。復員後、新橋の闇市でコーヒー、砂糖、大福などを売って得た利益を元手として1946年に新橋でアマンドを創業。1949年に有楽町店、1952年に日本橋店、1961年には銀座に初めての支店を開業し銀座に集中して支店を広げ、その後赤坂、青山、六本木、渋谷など東京の繁華街を中心に支店を拡大しました。1968年当時、銀座にはアマンドが6店舗あり、バー・クラブのホステスがお客のお土産用にケーキや洋菓子を購入しました。得意先へケーキの出前も行っていたそうです。滝原社長はお得意先のクラブやバーに顔を出し、その席には伴淳三郎、古川緑波、森繁久弥などの芸能関係者を同伴したり、タカラジェンヌを引き連れていたこともあったそうです。三木のり平とは特に親しく、闇市時代からの知り合いで、進駐軍の慰問で手に入れた砂糖を滝原氏に融通したと三木氏は語っています。かれら有名人と親しくしていた理由はアマンドの広告塔となってもらい商売を広げることが目的でもあったそうです。「本日誕生、本日開店」をモットーとして、日頃からフレッシュな感覚を維持するよう社員を教育し、接客マナーや衛生面は特に厳しかったようです。時には各支店のサービスが行き届いているかを幹部に密かに調査させ、抜き打ちで指導していました。

滝原社長が逝去したのは1990年。終戦後から昼夜問わずパワフルに働き続け、日本の高度経済成長期と足並みを揃え事業を拡大してきた人物は、バブル崩壊を見ることなくこの世を去りました。もし健在であったら、時代にあった事業内容に変更していた可能性も考えられます。手軽な値段のコンビニスイーツが購入できる現在であって、老舗洋菓子店の閉店が相次いだここ数年の状況を考え合わせると、六本木の同じ場所に店舗があることは、単に「昔の名前でやってます」だけではない企業の意志を感じます。

参考資料
『商店建築』「アマンド館」1966年11月号
『週刊サンケイ』「銀座の甘い決戦 アマンド対ヴィクトリア」1964年5月25日号
『実業界』「熱烈実業人シリーズ(12)」1970年2月号
『週刊新潮』「新橋の闇屋から出発した『アマンド』社長の死」1990年8月30日号
『月刊食堂』「チェーン店訪問 アマンド」1968年11月号
『製菓製パン』「広告:ショップカラー」1971年8月号

本文のリンク先の記事一覧(2023年5月31日閲覧)
アマンド公式サイト:ブランドヒストリー http://www.roppongi-almond.jp/history.html
流通ニュース:キーコーヒー アマンドを買収 2012年01月12日 https://www.ryutsuu.biz/backnumber/strategy/e011224.html
アーバンライフメトロ:「待ち合わせと言えば」アマンド 経営危機乗り越え再起、その歴史を振り返る 2019年4月29日 https://pex.jp/point_news/dace289ca6145c8c806a41e4b77f6285
ヒトサラマガジン:【アマンド】が40年前のメニューを復刻し「昭和食堂」スタート。“逆戻り”こそ“進化”!? 2017年6月9日 https://magazine.hitosara.com/article/563/

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