神保町の靖国通りの裏手、パチンコ『人生劇場』や天ぷらの『いもや』があった細い通りに「ハンバーグぷるぷる」という名前の定食を出す店がありました。その頃は学生相手のボリュームある定食屋が今より多かったと思います。「いもや」は神保町に4店舗ほどあったし、『キッチン南海』もすずらん通りで元気に営業中でした。「ハンバーグぷるぷる」の店は『橋』という名前で、年配のコックの親父さんと娘さんらしき人が働く、カウンターメインのお店でした。
「はい、ハンバーグぷるぷる、いっちょう!」と独特のカン高い声を出す親父の店がある、と人に誘われ、案内されたのは神保町の裏通り。2000年代の初頭のまだ東京に来て間もない頃で街には馴染みがありませんでしたが、この裏通りにあった筆文字の看板「人生劇場」がパチンコ店なのに重々しい名前だったので、ずっと記憶に残っていました。昼のピークタイムをやや過ぎていたのでお客はまばらでしたが、私は緊張していました。こちらの店主の親父さんはお客には低姿勢だが、調理補助の女性にはアタリがキツいので客としては閉口すると聞いていたので。口喧嘩を聞きながら食事なんてのはイヤだなあと。「ぷるぷるいっちょう!」が聞ければそれでいいんだけど。
このお店は前払い方式で、プラスチックの食券と引換えに料理が出されていました。自分が卒業した大学の食堂の券売機は紙に印刷された食券だったので、プラ食券を初めて目にして驚いたのを覚えています。
ぷるぷるというのは、ハンバーグがプリンのように揺れ動くやわらかさなのか、とか、ハンバーグのタネにぷるぷるした食材が仕込まれているのか、とか色々と想像していましたが、結局は、小ぶりのハンバーグと焼いた薄切り肉がワンプレートになったメニューでした。肝心の味はよく覚えていません。なぜそんな名前なんだろうかとネーミングの由来が気になりましたが、とても訊ねる勇気はなく、いそいで食べて無言で食事して店をあとにしました。
再訪したいと思いつつ、2,3年後に『橋』は閉店したので再訪はかないませんでしたが、変わった名前のメニュー名はその後も忘れることはありませんでした。それから10年以上経ち、東京の昔のグルメ本をよく読むようになり、再び「プルプル」という名前を本で目にしました。富永一朗の『東京珍味たべあるき』(柴田書店、1967年)には神田・小川町の『キッチンひさご』の名物メニュー「プルプル」を紹介しています。

「このプルプルなるもの、薄切りの豚肉をいためて辛し醤油で食べるのだが、さっぱりしてうまい。キャベツもゴッポリついている。百五十円と安いから、学生諸君に大評判らしい。」
さらにこのメニューはご飯がおかわり自由だったため、体育会系の学生に人気だったとあります。本に載るほど有名で何人もコックがいたようなイラストも添えてあるので、『橋』の親父さんもこちらで働いていたか、もしくは人気店のメニューを拝借、アレンジして「ハンバーグぷるぷる」というメニューを考案したのか、どちらだろうか・・・。なお、『橋』はフライ物など、数種類のランチメニューがありました。ハンバーグ以外にも「ナントカぷるぷる」という名前のメニューがあったかもしれません。
今でも「ぷるぷる」を出すお店が都内にあるか探したところ、浅草橋のとんかつ店が「ぷるぷる」をランチで提供しているようです。口コミを読んでみると、肉は塊肉を薄切りにしているとか、辛子醤油で食べるひさごスタイルとは異なるとか、ご主人は元・ひさご出身だが「ぷるぷる」の名前の由来はよく知らないなどと書かれていました。
もう少し、ひさごのことをよく知りたいと思ったので、国会図書館デジタルコレクションで検索してみました。『月刊食堂』(1971年10月号)によれば、ひさごは昭和26年創業の店で看板メニューの「プルプル」と「ひさごライス」は学生向けに栄養価が高くボリュームあるメニューを開発したとか。『商店界』(1962年8月号)では「お代りサービスで当った店」としてご飯お代わり自由のひさごを紹介しています。プルプルは豚の薄切り肉を塩こしょう、化調で炒め、生野菜を添えて提供。豚肉は辛子醤油で食べる。ひさごライスは化調で味つけしたライスにバター、塩こしょうで炒めたタマネギ、ハム、ウインナーを目玉焼きでとじて載せたもの。記事の掲載時期により前者、後者で250円、150円と値段は異なりますが、学生向けのリーズナブルな価格で提供されていたようです。
なお、「プルプル」の名前の由来については、以下の記述がありました。神田・駿河台近くにあった出版社、日本織物出版社の鳥居社長は、ひさごの「ぷるぷる」は自分の発明料理で名前も自分が付けたと語っています。「名前はエリザベス女王の戴冠式のパープルをむらさきに引っかけたんや、ワッハッハ・・・」(『父の時代・私の時代 わがエディトリアルデザイン史』(堀内誠一著、日本エディタースクール出版部、1979年)
なぜ豚肉料理からエリザベス女王を連想したのか、記述からはわかりかねますが、パープルとむらさき(醤油)をかけた「プルプル」というだじゃれで、見た目や食感を指した表現ではないことは理解できました。
元祖プルプルは食べたことがないけれど、調理法や調味料が載っているし、店主も「家庭料理の延長」だと答えているほどだから簡単にできるかも、ということで作ってみました。豚肉を塩こしょうで焼き、辛子醤油を絡めたアレンジを加え、夕飯の一品の出来上がり。簡単そうなレシピに見えるが、ごく強火で肉を焼くからおいしいとあるので、お店の味からはほど遠いと思われますが、ぷるぷるの謎をいくらか解決できたので満足しています。


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