2023年12月に八重洲のレンタルスペース「MARUNITUTA」にて、ミニパネルとマッチ箱展示「元喫茶室・三つ扇で振り返る八重洲周辺の喫茶店」を開催しました。大変遅くなりましたが、年末のお忙しいなかお立ち寄りいただいた皆さまには、改めて感謝申し上げます。
開催後に展示方法と調査に関して反省点があり、当該エリアの喫茶店を調べ直しているところです。早く印刷物としてまとめたいと思っていますが、調べるとあれもこれもよく分からない・・・となり、時代背景から調べてまわり道をして時間がかかっています。
いくつか調べているうちの一店、日本橋室町にあった甘味と喫茶の「梅むら」をまとめました。梅むらは有名な老舗店なので、少し調べただけでも色々と出てきます。梅むらは2011年頃に閉業し、現在は貸ギャラリーとして営業を続けられています。
私が梅むらを訪れた頃は甘味店としての営業はやめていましたが、元はしるこ店として明治33年に創業したお店です(『中央区年表 明治文化篇』1966年)。以下は旧ブログに書いた梅むらの投稿です。
店の前にサトコちゃんがいた頃(平成中期)
昼どきのオフィス街は、大体どの街でもランチ戦争です。限られた時間内で店側も必死なら、客も必死。どこも満席、連敗で木屋の裏辺りを右往左往していると、入口にサトコちゃんのいる喫茶店のことを思い出し、入ってみることにしました。
自動ドアの向こうが店かと思いきや、地下へ降りる階段が。公衆電話が地べたに置いてあります。階段を降りると、突然店内。ドアのない、古いビルだからでしょうか。
少し薄暗い店内では白髪のマスターがたった一人、必死で店を回していました。15~20席程度の小さな店で、近場のサラリーマンが食事をとっていました。
食事はナポリタン、明太子スパ、明太子ピラフのみ。コーヒーのセットで700円~と、日本橋ではかなりリーズナブルな価格でした。
ずいぶん待たされるのではと思いきや、10分程度でスパが到着。フロアをすべるように移動しながら、マスターが皿を持ってきてくれました。普通盛りのはずなのに、ずいぶん山盛りのふにゃけた太麺でした。
コーヒーにはこだわりがあるらしく、わざわざ豆を挽くところから始めてくれます(昼どきなのに!)。ブレンドの豆は有機栽培で、ブルマンもグレードにあわせ3段階の値段が付いておりました。
コーヒー 400円 ナポリタン・明太子スパゲティ 600円(セット 700円)
中央区日本橋室町
昼11時?~夕方6時? 土日祝 休
※確か2年ほど前から喫茶店の営業をやめてギャラリーに変わってしまっていました。【2012.6】
[閉鎖した旧ブログの投稿(2008年11月)より]
ブログを書いた当時、梅むらは小豆色の日よけテントと薬局の前にあるピンクの象(サトコ)が目印の店でした。汁粉店として創業した梅むらは後に喫茶部を開業、閉業の数年前は甘味をやめて喫茶のみ営業していたようです。
大正時代は日本橋の魚河岸で働く人も訪れる甘味店でした。路地の奥にある一軒家の店で、1階はテーブルと畳の席があり、2階では早朝の仕事を終えた魚河岸の人が将棋を打っていたそうです。今の日本橋の風景からは想像ができませんが、のどかな時代だったことがうかがえます。
明治創業の汁粉店
戦後、梅むらの建物ははビルとなりましたが甘味店は健在で、日本橋界隈の会社員に支持されていました。日本橋地区のタウン誌、『日本橋』では夏場の甘味処として梅むらが紹介されています。
「オフィス街の真ん中にある秘密の安息所、って感じなのです。私のお気に入りは、杏の実が入ってる氷杏480円」
(『日本橋』1886年7月号)
恐らくではありますが、関東大震災前の幼少期の頃の思い出話を書いた本にも、梅むらについて触れています。上記タウン誌の記事では梅むらは都内に数ある甘味処の1軒ですが、この頃は飲食店の数は今と比べて少なく、きちんとしたものを出す甘味処は限られていました。また、この時代から既に杏をトッピングしていたとは驚きです。
「ここの蜜豆は、器に盛り付けた上に、オレンジ色の西洋アンズを甘く煮て、真ん中に一つ飾ってある(中略)たった一つの西洋アンズの貴重さで、梅むらの蜜豆は子供達のあこがれの贅沢だった」(『日本橋魚河岸と文化学院の思い出』)
梅むらは、戦前(大正~昭和)の東京では評判の汁粉屋として紹介されています。その頃、東京には、松、竹、梅の文字が屋号に含まれた汁粉屋がありました。浅草観音裏の松むら、神田淡路町の竹むら、室町1丁目の梅むら。
現在も汁粉屋として営業を続けているのは淡路町の竹むらのみです。竹むらはあわぜんざいが有名らしいのですが、私はお土産の揚げまんじゅうを頂いたことしかありません。竹むらは戦前からの雰囲気を残した和風建築として、何度もメディアに取材されている人気店。混んでいると思いますが、唯一残った「竹」には一度行ってみたいと思います。
追記:喫茶部はいつ頃からあった?
梅むらの喫茶部はいつ頃からあったのでしょうか?戦後からと思っていたのですが、戦前の昭和時代からあったのかもしれません。というのは、日本橋の鉄板焼きの老舗・紅花の創業者が書いた本によると、敗戦後のコーヒーが手に入りづらかった時代に梅むらの店主からコーヒー豆を原価で譲り受けたという記述があるからです。戦前に大量に買いだめしていたコーヒー豆があり、今店では使わないからということで譲り受けました。戦後、コーヒー豆が貴重だった時代、本物のコーヒーが飲める店として評判となり、その後、レストランに業態変更して鉄板焼きの店として営業を続けています。
なお、紅花の公式サイトには店の歴史が書いてあります。
戦前はジャズ喫茶、戦況が厳しくなり汁粉屋に業態変更、空襲で店が燃えて敗戦となり、再度汁粉屋をはじめたがコーヒー専門店に業態変更し評判の店に。その後レストランに改装し、バーベキュー、鉄板焼きの店として現在に至ります。
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