夫の両親の用事で潮来で一泊することになりました。宿泊地は築130年の古民家でした。利根川の支流・常陸利根川沿いにある元・米問屋を改修した塙ハウスという民泊施設で、かつて舟運で栄えた水郷の町らしい建物でした。外観はふつうの民家に見えますが、敷地内には倉庫(元米蔵)、民家の入口横には事務所が併設されています。予約サイトのAirbnbの説明によれば築140年とのことですが、手入れと改修がされているのと子どもの頃過ごした親の実家と造りがよく似ていたため、古さはあまり感じませんでした。
潮来を一巡りする時間はほとんどなかったのですが、少しだけ小見川駅周辺を歩いてきました。小見川は潮来よりも小じんまりした町だというのが第一印象でした。駅周辺は和菓子店、書店、玩具店、大判焼き屋、団子屋、川魚店、八百屋、衣料品店、電器店等が点在しており、歩いて楽しい町でした。一回りして駅近くの喫茶店に行くため戻ろうとしたところ、パンメニューを表示した立て看板のある建物に気付きました。近づいてみると屋号を記した看板は見当たりませんでしたが、棚にはパンが並んでいるのが見えました。店舗のガラスには動物のステッカーが貼られています。80年代初頭と思われるタッチのイラストでした。
棚にはあんパン、ジャムパン、クリームパン、甘食、コッペパンなどのスタンダードな菓子パンが並んでいました。原材料費の高騰により値上げはしていると思われますが、1個200円以上の値付けをしたパンはなく、買い求めやすい価格帯でした。店内外の備品や内装から50年ほど営業しているだろうと勝手にあたりをつけたのですが、何年ぐらい営業しているんですか?と高齢の店主さんに話をふってみました。
第一印象では寡黙そうに思われた店主さんでしたが、その質問に「その話、長くなるけど、時間大丈夫?」と返答し、地域の昔話を交えながら饒舌にお店が開店するまでのお話をされました。話は所々脱線しつつもお店の歴史についてまとめるとこんな感じでした。「創業者は福島の出だったが、この地でパン屋を開いた。地元を出た後、どこかでパン酵母の作り方を覚えたらしく、パン職人として各地を転々とした。当時、パン酵母の作り方を知っているパン屋は有名どころでは木村屋とかだけど、そことは製法が違ったらしい。とにかく極秘である酵母の製法を知っていたので、どの地に移り住んでも仕事には困らなかった。青函連絡船のコックだった時期もあったそうだ。自分は酵母の製法を教えてもらっていないのが残念だ」
店主さんはこう問いかけました。「(創業者は)水戸でパンの仕事をしていたらしいけど、そこよりも田舎の小見川でパン屋を開業した。当時、この辺りの人は米食でパンは食べていなかった。まだ小見川に鉄道も通っていない時代で、佐原からは馬車で小見川まで移動していた時代だよ。なんでかわかる?」
「水運業が発達していたからですか?」と答えると、それはそうだが、それだけではないという店主。店主が出したヒントを元に「芸者さんですか?」と答えたら、それが正解でした。各地から訪れる水運業の人たちが当地に宿泊したので、花街ができて栄えたのだそうです。外からやってきた人向けにパン屋として商売を始めたというのは意外な理由でした。店主さんによれば創業100年ほどになるそうです。
実は話を聞いた時は面白いけど半信半疑で、どこからどこまでが本当なのか疑っていたのです。福島県にも創業80年以上のパン屋があったし、他の都市部でも創業70年以上のパン屋を訪ねたことはあるけれど・・・。それで、デジタルコレクションで小見川の舟運業、鉄道敷設、花街、青函連絡船、パンの歴史を検索しました。その結果、どの話も概ね時代が合っていることを知り、半信半疑で聞いていたのを申し訳なく思った次第です。店主さんの話と資料から推測すると、パン屋さんは大正の初め頃に創業し、その頃の屋号は現在とは異なるようです(店主さんに確認しないとはっきりしたことはわかりませんが)。江戸時代から明治にかけて下利根川沿いの船着場のある町には旅籠屋や飯屋、売店ができて賑わったそうです。小見川には米問屋もパン屋も水運で栄えた町ならではの仕事でしたが、最も勢いがあったのは鉄道敷設前の明治時代中期までのこと。船から鉄道、鉄道から自動車へと変わった交通事情だけをみても大きく変化し、さらに世界大戦を経て暮らしも大きく変化したにもかかわらず、100年後の現在も当時の面影が感じられるものごとに触れられたのが、今回の旅行でのいちばんの驚きでもあり、幸運だと感じたことでした。
*参考*
利根川の水運と夜の女
小見川は下利根川の中心河港の佐原につぐ、千葉県側の川べりでは賑わった町で、利根川の水運の発達した時代は九十九里浜の鰯や干潟村産の米が陸路で運ばれた。それらは小見川の河岸から高瀬船で木下・関宿、江戸に運ばれた。佐原や小見川だけでななく、江戸時代の利根川べりの船着場のある町はどこも賑わい、船乗りや旅人を相手に夜の女が集まってきた。
小見川は潮来の公娼とは異なり私娼で普段は女中だが客の求めに応じて船に出かけたり旅籠屋に泊まった。
『大利根川べりの記録』(山本秋広・著、1964年)より要約
小見川の鉄道敷設
小見川町は銚子、佐原、潮来などとともに江戸時代は水運が栄えた当時は水の宿として知られた。明治30年総武本線が銚子まで開通するに至りさびれたが、佐原から銚子までの船が発着していたこと、銚子街道沿いの町であったことより、街としての役目をなしていた。『房総と水郷』(鉄道省、1934年)より要約
小見川の花街
小見川の花柳界は当地の商業の繁栄と正比例していた。明治27、28年頃までは芸者数68名ほどだったが、明治28年総武鉄道が銚子まで開通し、小見川へ米を送っていた村落が鉄道便で送るようになって以降、明治35、36年頃には芸者の数は14、15名ほどに減ってしまったが、近年は近在の客が通うようになり、芸者も26名に増えた。料理旅館の酌婦や女中を合わせると80数名となる。芸妓屋は7軒、専門の料理店、通常の料理旅館の他、酌婦や芸妓を呼べる料理旅館が10軒以上ある。(『小見川案内』宮島太一 編、1915年)より要約
パンの歴史
東京あたりでは明治30年頃には小学生が食パンにジャムを付けて食べることが流行り、下町の子どもたちはジャムパンやあんパンがおよつとして喜ばれていた。大正時代に入るとチェーンストア形式のパン屋が町々に出現していった。『パンのすべて』(辻静雄・著、1965年)より要約
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