昭和レトロとブログ投稿

以前使っていたエキサイトブログの下書きに残っていた文章です(最終更新日:2011年10月21日)。何年も前から問題提起されてきた今や手垢の付いた話題ですが、当時は非難を恐れて公開できませんでした。投稿先がブログからインスタグラム、ツイッターなどに変化してきても、問題は現在も変わらずにあること、またこの問題に対する私の考えも全く変わらないので、加筆して掲載します。

 

いったい、何のために喫茶店に行くのか。初めて行く店など、心底寛げるはずもないのに。そして、ブログになど、なぜ載せる必要があるのだろう。

 喫茶店めぐりを始めたきっかけは単純でした。今ではすっかり珍しいレトロな雰囲気だから。閉店する前に訪れて記憶や写真に残しておきたいから。また、物見遊山的に興味をひかれたこともあります。
 しかし、時間が経つにつれて、何度も悩みました。時間も金もなく、交渉術や撮影技術もなく、大した表現力もなくクサい文しか書けない詮索好きのしったかぶりの自分。やな感じじゃないか。適当な人間が他にいるはずではないのだろうか。
 
 自分が喫茶店めぐりを始める前からもレトロ賛美の風潮はありましたが、年を追うごとに、「昭和レトロ」と「人情」が隠し味の店は注目を集めるようになりました。昔はどこにでもあったけど、今ではその数がすっかり減った貴重な店は、遺産という形容をされるまでになりました。
 喫茶店の撮影が問題になったのは、レトロを称賛する新規客と、レトロではなくただの古い店だと見てきた店主と固定客との認識のずれから生まれたものだと感じます。
 そしてそのように感じているのは、自分だけではありませんでした。以前読んだ雑誌のバー・スナック愛好者の寄稿には、以下の苦言に近いような文章がありました。

 「昭和がブームとなっているが、東京のふるくからある居酒屋、喫茶店なんかはすっかり踏み荒らされ、露出してしまった。こういう処(バー・スナック)は一見にとっては値段も分からないし、敷居も高い。昭和を感じられる飲食店としては、まだ荒らされていない唯一の業種である」(原文ママではなく主旨)

 記事自体はあいまいな表現でちくりと刺すだけにとどまっていますが、踏み荒らした者への非難を、安易に特集を組んだメディアや、安易にブログで情報発信する個人にも向けられているように思いました。
 TV、雑誌、インターネット等のメディアはともかくとしても、個人のレンタルブログはお手軽に発信できる分、受け手もまた、お手軽に「情報」の羅列としてインプットされ、やがてまた忘れられていく存在なのかもしれません。

 自らの行為を「記録」と言い訳する自分のブログは非常に中途半端です。かといって、喫茶文化とか、人とのつながりとか地域コミュニティを大切に、などの大義名分を主張するまでにも至りません。ブログに載せた後に起こりうる責任について、あることないこと想像力をたくましくさせ、掲載を思いとどまることが増えてきました。
 
 それでも、喫茶店に行くこと自体は楽しいと考えています。自分の場合は「対話」のよしあしが鍵となっている気がします。周りのお客さん同士のお喋り、お客さんと店主との会話に参加したり、会話に参加せずとも、何となく耳を傾けるだけでもその場の空気の一部になるような一体感があります。そこで聞いた話題は役に立たないように思われても、店を出るとなぜかすっきりとした心地になる効果が現れます。そういう、形の残らないけれど、いい感じの雰囲気の一瞬の空気だけでも表現することができたらと考えます。そういう雰囲気は、とりわけ喫茶店に絞らなくてもあるものかもしれないけれど……。

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