私が初めて喫茶店らしい喫茶店に行ったのは高校卒業後の冬、旧友に誘われた金沢・香林坊のローレンスだった。
店は旧映画館街の入口付近の古い建物の3階にある。店の真中に大きな壁があり、店内全体が見渡せない。大きな肘掛け椅子に腰掛けると自分の姿がすっぽりと沈み込む。立地も店内も隠れ家といった雰囲気だった。店のあちこちにドライフラワーが飾られ、店内の壁の色と調和していた。退廃的で気怠いような空気のなか、唯一生々しい匂いを漂わせていたのが、作家の五木寛之氏から贈られた大きな晩白柚だった。
友人と私は大ぶりのカップに入ったコーヒー、お茶請けのチョコとゆで卵を食べ、お喋りに花を咲かせているうちにあっという間に2時間が経っていた。
奥の部屋で談笑していた中年男性のグループはすでに帰ってしまっていて、店にいたのは私たちだけだった。帰り際に友人がカメラを取り出し、友人と私とのツーショットを店のママさんに頼んでいた。当時のママさんは何か話掛けると答えて下さったものの、もの静かで控えめな印象だった。
それから約10年後に店を再訪した。建物も内装も変わらないが、初回の印象と比べてママさんはおしゃべりに思われた。その時のお客の平均年齢が若く、また新規客も目立っていたせいもあるのかもしれない。ママさんに何があったのだろうか、と考えたのち、いや、昔からこんな感じだったのかもしれないと考えを改めた。
初来店の人 に「私、コーヒーが苦手なの。正直喫茶店には向いてない」、「お勧めはココア、思春期味。イメージはこの絵よ」などと語り、ムンクの絵を見せると若いお客さんは受けていた。店の雰囲気に合わせて飾っている乾燥玉ねぎを「玉ねぎのミイラよ」などと説明してみたり。だが、真面目な話もする。少し小声になって私に目くばせしながら、「ここでは治外法権よ。ある程度の年齢まで行くと、私みたいな人を受け入れなくなる。お勤めをしていた頃、上司が同意を強要するやり方にうんざりした。反対意見が言えないの。お給料は我慢代かしらと思ったわ」などと語ったこともあった。
そういったママさんの人柄についてすきずきはあるかもしれないが、初来店の方の様子をうかがっていると、大方の人は30分もするとすっかりくつろいだ面持で彼女の話を聞いていた。初めて来る人の多くは事前にネットで店の雰囲気を調べていることが多いだろうから、合わないと感じる人は、はなから来ないのかもしれないけれど。 何度か接客を見ているうちに、ママさんがお客との距離感を測りながら気を配りつつ接していることがよくわかった。話掛けられたそうな顔をしている人にはそのように接するし、そうでない人は常連も初来店の人でも、構わずにそっとしておき、居たいだけいられるようにしている。
故郷を離れて10年以上が経過し、訪れるたびに戸惑うことが多い私は、この店に来ると心底安心する。相手の触れられたくない大事なところには立ち入らずに人の心に入り込む術を知っているママさんはこの街にはなかなかいない人だから。そして、店へと続く階段を昇るたびに、少し現実離れした世界で喫茶店を楽しむ気分が盛り上がっていく。
ローレンス 金沢市片町2丁目 午後3時頃~午後7時頃 不定休
完全に余談ですが、以前ローレンスの入居しているファミリアビルの2階にはスコーンと紅茶を出すカフェがあったと、当時友人から聞いていました。また4階には各国料理店(確かリトアニア料理店)があったと記憶しています。どちらも訪問することなく既に閉店しています。
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