新宿・歌舞伎町のジュース専門店『マルス』

天然果汁を作る店マルス 東京都

新宿・歌舞伎町の奥まった場所に店を構えるジュース専門店『マルス』。装飾テントには「天然果汁ヲ作ル店」と書かれています。風俗店やホテルが並ぶ界隈では異色の存在です。ネット上の評判は、夜のみ営業の店、時価(一杯1000円ほど)の高級ジュースを売る店、などで、ミステリアスで入店しづらいお店に思われました。営業時間は18時以降~不定休、ドア横のモニタホンを押して店主さんを呼び出してドアの鍵を開けてもらい入店できるシステムだそう。なかなかハードルが高そうです。
実際に訪れてトライすること2回、いずれも店の中からの反応はありませんでした。店内に明かりが灯る夜の時間帯にモニタホンを押したのですが。あと何回トライできるだろうかと思いつつ3回目に訪れた際、店内に先客がいたのであっけなく入店できました。
店の天井は思っていたより高く、梁や柱がむき出しのハーフティンバー調の内装でした。カウンターに立つのは高齢のママさん。先客と昔の歌舞伎町界隈の話をされていました。あちこちに絵画が飾られています。特にメニューは出されませんでしたが、季節によりパパイヤ、キウイフルーツ、オレンジ、グレープフルーツ、メロン、マンゴーなどのジュースがあるようです。訪れたのは11月で初来店だったのでお勧めの看板メニュー、アボカドジュースを注文しました。


グラスのふちまで注がれたうす緑色のアボカドジュースはクリーミーで青臭さもなく、すっと飲めました。「季節ごとに仕入れるアボカドの産地が異なるんですよ。ハチミツを隠し味に使ってます。アボカドは女の人のお肌にもいいのよ」と店主さん。店の片隅にコーヒーミルが置いてありました。永年使っていないようでしたが訊ねてみると「戦後すぐに創業した頃は果物は貴重品でした。最初はコーヒーとホットドッグ、サンドイッチなど、普通の喫茶店と同じようなメニューを出していました。果物が手に入りやすくなってからジュースを始めるようになったんです」とのこと。
「店内は暖房がないから冬はかなり冷えるのよ。また来たい時はインターホンを押してください」とのことだったので、また暖かくなってから来ようと思っているうち年明けからCOVID-19の流行が始まり、再訪が難しくなりました。

最近になって『マルス』の取材記事(1974年)を見つけました。
記事によると、マルスは1946(昭和21)年、新宿・歌舞伎町に店を構えたそうです。当時の新宿は空襲により瓦礫の山と焼け跡の街で、マルスも店を構えるというより雨露を凌ぐ程度の建物だったそうです。戦前、銀座のコーヒーショップでバーテンダーの修行をしたのち兵役で満州に渡っていた店主は、除隊後に店を持つ夢を兵役中にずっと抱き続けていました。ローマ神話の軍神の名である『マルス』という屋号は、満州時代に通っていた店から名付けたそうです。喫茶店からジュース専門店に路線変更したのは1949、1950(昭和24、25)年頃のこと。
記事の書かれた70年代はすでに濃縮果汁が市場に出回り、それを「ジュース」として販売していたこともあったそうです。戦前はジュースといえば天然果汁100%に決まっていたと憤る店主。マルスでは外国産の果物(アボカド、パパイヤ、グレープ・フルーツ)の食べどきを逃さずジュースにすることを売りにしていました。さらに店主は時間に追われる生活や、インスタントばやりで合理化が進むことを嘆いていますが、記事の書かれたのは47年前のこと。現在の有り様を知ると卒倒してしまうかもしれません。

店主の嘆きは「常連」という言葉についても及んでいます。
「〝常連〟ということばもずいぶん安っぽくなった。ひどいのになると、お客の側が勝手に常連を決め込み、常連風をふかす。常連なんてものは店の側が決めることで、足繁く通っているから、俺は常連だというのはオカドちがいもいいところ。ウチの店に限っていえば、〝馴染み〟だ」
現在ではなかなかお目に掛かれないタイプの頑固な店主というイメージです。1974年はすでに現在のように歌舞伎町が繁華街として賑わいを見せていた時代。マルスの店主のような方は当時消えつつある時代遅れの人種であり、実直な商いを続けている姿勢に魅力を感じて取材が申し込まれたのではないでしょうか。記事中ではマルスの店内にある暖炉に薪をくべる行為で故郷を思い出す若者のことも書かれていました。あの時先客として訪れたグループ客も、自分もあそこでしか飲めないジュースというより、あの場所にしかない雰囲気を求めて来ていたのだから。
参考:『喫茶店経営』1974年4月号 写真で振り返る新宿区 新宿区の変遷 一般社団法人新宿観光振興協会

コメント

タイトルとURLをコピーしました